教育長ブログ

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辻村哲夫、中西茂著『もう一度考えたい「ゆとり教育」の意義』を読みました。

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辻村哲夫 元文部省初等中等教育局長。20年振りに元上司の名前を見つけました。以前からお世話になっている中西茂さんとの共著とあれば、買わないという選択肢はない、ということで即買いです。

辻村元局長は、部下として働いたのは数か月間だけだったこともあり、下っ端の私からすれば、直接お話しすることなど滅多にない雲の上の存在でした。たまに廊下で見かけて「いいスーツを着てるな」という印象が残るくらいです(スミマセン)。

本書の辻村元局長のパートは、当時の答申を振り返る内容が主ですが、当時の記述を読み返してみると、今でもそうだと思える部分と、若干の違和感が残る部分があります。自ら考え表現する力などの「生きる力」が必要だというのはその通りだと思える一方、「ゆとり」ができると「生きる力」が育まれるというつながりは、やや間接的すぎるように感じます。

駆け足の詰め込み授業を何とかしたい、という強い危機感は伝わりますが、詰め込みの時間を減らして作った「ゆとり」の中には、考えるための時間とそうでない時間があるはずで「ゆとりが増える」イコール「考える力がつく」とまではいえないでしょう。もっと目的と手段を直結させて「覚えるだけの時間を減らして、考える時間や表現する時間を増やす」ことを打ち出した方が、世の中の不安は少なかったかもしれません。

中西さんのパートについては、遠山敦子、佐藤禎一、小野元之、銭谷眞美…(みんな大先輩ですがこの際敬称略)と、懐かしい名前のオンパレード。一気に新人だったあの頃に戻った気持ちになりました。旧文部省庁舎の暗く狭い廊下を、照会文書や答弁案のコピーを持って走り回っていた当時の記憶がありありと思い浮かびます。

そして、中西さんの「当時も、本当に詰め込み教育や受験競争が深刻だったのかは、改めて問い直す必要もあるのだろう」という問題提起は重大です。ネットも普及しておらず、今よりはるかに学校の現状についての情報が少なかった時代。激しい詰め込み教育や受験競争を自ら経験してきた文部官僚(新人の私もその中の一人でした)が、日本全国すべての学校がそうに違いないと思ってしまったことが「ボタンの掛け違い」の第一歩だったのかもしれません。